ポーズを決めてカッコを付けようとすることが能動的な美学だとするなら、「そんなのカッコ悪いだろう」と、しないことを決める引き算の美学もあるものだ。
派手に魅了する美学が若い美学とするのなら、引き算の美学とは、静的なわきまえのある美学。年を取らなかったら語れない重みがある。
誰にだって後悔することがある。後悔するようなことをしてはならないなんて説教をする気はない。
後悔をしなければ得られない価値観がある。それが、「そんなのカッコ悪いだろう」という美学というか哲学なんじゃないかって思うことがある。
とある漫画で、父さん家で仕事の愚痴言ったこと聞いたことがない。と息子が言う。
それに対して、親がそんなのカッコ悪いだろうと返す。
もしかしたら、その言葉を発しなかったら、一生気が付かなかったんじゃないだろうかという哲学を、父親は持っていた。
もしかしたら、そんなことすら知らずに死んでいたのかもしれない。
社会は、その人がしたことを評価する。
しなかったことを評価しようとする傾向はない。
だからこそ、その父親が吐いたセリフが、どこにでもいる年おいた父親の仕事への向き合い方と、家庭への向き合い方を言い表した、彼なりのかけがいのない美学。
そういうものを感じ取れるのは、その人に迫っていなければできない。
いつも一緒にいるはずの父親の見えない心の哲学を、私はいくつ知っていたのだろうか?
またこの表面に現れなかった美学を胸に、私は、まだ見てくれだけを追い求めていくのだろうか?